洋服の整理をしていて、もう着れないし
置いておくスペースもとれないしなと思うものを片付けているのですが、
◎家庭ゴミとして捨てる
◎リサイクルショップに出す♻️
◎リサイクルガレージ的な所(スーパーに設置してある)に出す
の、どれにも当てはめにくい服がありまして。
例えば子供のフラの発表会の為に作られた衣装。
出来たら時々眺めていたいくらい思い入れがあるのですが、
それ以上に、
「燃やしたい」
という思いが強くあります。
ここがハワイだったらすぐにまた誰かに選んでもらえそうだから
再利用の道を選びたい。でも、ここではそう思えない。
ナイロン袋に入れて、他の家庭の生ゴミ達と一緒になるのは
洋服の最後として似合わないし、
リサイクルは前述のとおり。
まだ私が小学生だった頃、
祖母の小さな畑では、抜いた雑草を乾燥させてから火をつけ燃やしていました。
畑や田んぼから小さな煙が上がっているのは
そこここでよくある風景で。
ある時から、安全上の理由などで、
個人で火を起こすことが禁止になりました。
焚き火とまではいかない小規模でも、メラメラする火を見るのは
なんとも言えない面白さがあって。
秋になったら、近所の公園で枯葉を山のように集めて、
その場で焼き芋をしたような記憶が。
公園で??
と、今では信じられないので、
記憶が確かかよく分からなくなっているのだけれど 笑
よく葉っぱを掻き集めていたのは確か。
田舎でも人口が増えていった時代。
家々が密集してくることで、
焚き火による煙の被害や火事などが問題になるのは分かる。
でもでも。
ガスではない、あの「燃える火」に触れる機会がなくなったのは
寂しい。そして、経験をする事が出来ないという意味で
もったいないなと思う。
あの「火」との時間は、
波をずっと見ることや、空を見ること、
山を見ること木を見ることと同質で飽きなくて、
はかなければはかないほど興奮するのは
花を見ることに近い。
火は、その上「危険」というオプション付き。
それが神聖なものに感じるのは私だけではないと思うのだけれど。
台風や嵐、土砂崩れなどと違って、
最上の精神切り詰め状態を
自分の意思で始める事ができる。(火をつける行為ね)
あの時の、畑での燃える火と「同質なもの」で、
大事な衣装を無くしたいと思うのです。
もうずいぶん前になるけれど、義理の父(正式には元義理の父か)が、
山で燃やしてくる、と言って燃やすものを持って行ったのを
思い出すのですが、
えー、よくないでしょ、とあの時は思ったけれど、
今なら見張りをしたいくらいだわ 笑。
火を使って燃やす事は昔は当たり前にしていた事だし
むしろ人間生活での自然な行為だよな、って思う。
今の40代くらいまでが、キャンプとかではなく
火が燃える様を日常で経験できた最後の世代だったのかも。
今の子供でも、
我が道を通す(燃やしに行くような)
不良のおじいちゃんおばあちゃんがいればラッキーだね。
とか、不謹慎にも思ってしまいます。