長沢節氏の祭壇(と言っていいのか分からないけれど)を見たのがセツモードセミナーに行った最初で最後だったのか?記憶が曖昧なのですが、絵がとても上手で、ここの生徒であった友人に連れられて訪れたことがあります。
部外者の私も入れてくださるフリーな感じで。。亡くなったセツ氏の写真がただ真っ白のところにあった。。。という記憶があります。
ある生徒さんが、野に咲く花がきれいだから先生に。。。と摘んで見せたら、
そのままにしておけば長く咲いていられるものをなぜ摘むのか!というような事を言われたそう。
そんないろいろな逸話を友人から聞いていたので、花の全く無い祭壇にも納得でした。
モードを愛し、男を、女を愛した長沢節著「大人の女が美しい」を読んで、美しくあるには、断舎離をしたりダイエットに励むより、セツ流の美学の実践のほうがよっぽど実利的だなあとおもったのです。
正確にものをみること。そのうえでの、自分の欲望を忠実に生きる。
それがセツ氏がしてきたことだとおもいました。人生もデッサンのよう。
本文から
シェイプアップは知的なゲーム より
(前略)近ごろ流行の運動やジョギングは、私はほとんど信用していない。運動で体力を消耗するのは痩身の理屈にかなっているけれども、運動をするとますますお腹がすくからである。
(中略)
しかも私の家は五階建てなのにエレベーターがない。もちろんはじめから計画的にとりつけなかった。一階のアトリエから五階の屋根裏の寝室までの階段をいったい私は一日何べん上がり下りしなければならないことか。
しかし階段の踊り場は何とセクシーなことか!夜遅く帰って誰もいない暗い階段を、五階までトボトボ上がっていきながら、私はふとパリの屋根裏住まいだったことを思い出し懐かしむのだ。スイッチを押せば電気がつくのにわざと押さずに暗いところを上っていく。それでも毎日の馴れた階段を踏みはずすことはめったになく、暗がりといっても外からのごくわずかばかりの明かりが、ガラス越しにボーッと明るかったりする場所がある。その暗さ、その程度の明るさが突然、彼女を美しく浮かびあがらせるものだから、私は急に相手をかき抱き、思いきり青い首筋を吸い、いつの間にか二つの影が石の壁に埋没してしまうのだった。
もう一段昇りつめたら、やっとそこがベットというあたりのこの小さな踊り場が、なぜかロマンチックなあらゆるラヴシーン、あらゆる悲劇喜劇の数々をのみこんでいるわけなのである。だから私は、エレベーターよりもエスカレーターよりも階段を愛した。
「階段の踊り場は何とセクシーなことか!」
何ごとも「セクシー」を基準にして選択、行動するべきなのでは。。。
必死で運動してるより(楽しいのならいいとおもいますが)、フットワーク軽く日常を優雅に動いている人のほうがちゃっかりセクシーだもんなあ。
このことからも、痩身目的だけでヨガをするのはなんだかもったいないのは言うまでもありません。うっかり痩せちゃったりすることはありますがセクシーはついてこないでしょう。(言ってる人にあまり説得力がないのは勘弁。。)
合理的だったり便利だったりすることは好きだけれど、元気ならあえて一見面倒なほうを選びたい。すごく面白い事って習慣になるくらい馴染ませるまでは手間がかかって面倒くさいことだったりします。
セツモードに行った時、セツ氏の寝室も公開されていました。何もないベットだけの白い洋間。光が入って、シンプルなのに温かい感じがしたのを覚えています。
本書ではパッチワークやアプリケをちりばめた部屋を女の怨念の恐ろしい部屋とおっしゃり。。。
実をいうと私は花さえも自分の部屋には飾らないのである。自分の自由な空間では美がいっそうるさいと思うからだ。ほんとに何もないのがいい。そうすると、ふとコーヒーをいれたときの湯わかしのホーローの色が、とてもキレイだったり、茶碗の模様がよかったりするのだ。だから部屋の中で美しいものは、そこに飾られたものでなくて、ふと使われたものに限るということである。いつもセットしてあるものではなくて、必要に応じて現れたり消えたりするときに、それらが美しいのである。それらを美しく見せるのが、インテリアなのである。
これを読んで、残ってる物欲の大部分から解放されました。
もっと早く出会いたかった本です。そしてまだまだ大人の女ではなかったことを(知ってたけど!)目の当たりにし、もっと我の貪欲をかわいがり、かつノンキさで包含して美しい大人になりたいとおもいました。
自分のことは棚上げにして、もう少ししたら娘の本棚に置いておこうとおもいます。