今回のエーテル体のクラスで府に落ちたこと。
クラスの先生、ユキさんが口酸っぱく、身体を整えろと言う訳。
身体と心はお互いに影響を及ぼしていることは実感はあるし、今時は科学的にも証明されていて誰もが認めるところです。
ただ、肉体が弱い人でも自我にのまれず行動できる人というのを見聞きしていたからどうにも完全には納得できないところもありました。歳を経れば確実に肉体の機能は落ちるし。そうなったらどうなんだろうと。
ユキさんは、
「足腰がしっかりしていないとどうしても心が動揺する。
身体がしっかりしていればエゴの波が来た時に踏みとどまる事ができる。
そしてエゴと対峙するエネルギーが生まれる。」
とおっしゃる。
そうか、確かに身体が整っているときはご機嫌になりやすいし、そうでない場合、ご機嫌を維持するのは難しい。
そうなるとやはり身体が弱っているときほどエゴに呑まれやすいのだなあ。
「どっちにするか?」という選択肢さえ思いうかばないほど余裕がなくなるのでしょう。自我を選ぶか、神聖を選ぶか、の選択。
身体が整っている状態のときにより良い選択をしていくこと。
それをひたすら繰り返すことで、ユキさんのおっしゃるところの「エネルギーの筋力」をつけていくのだと思います。
身体の筋トレにしたって、体調が良いときにしたほうが効果的だし同じだ。
繰り返すことも。
そうするうちに、自分の身体の自由がきかないような状態になっても、エネルギーの筋力によって波にのまれず対峙することができるようになれるのだと理解しました。
初心者にとって身体を整えておくってことはエネルギーを感得していくための早道。
前述した肉体が弱くても自我にとらわれない、という方々は上級なのですね。
身体の状態の否にとらわれないくらいエネルギーの筋力がついている。
わりと丈夫で大きな病気にもなったことがない私ですが、なにか訳があるとしたら、
「自分、せめて身体だけでも頑丈でないとすぐ心折れちゃうでしょ。
まあこの身体を道具にあげるからがんばりや〜」
と、神様(というかなんというか)からの初心者用のギフトだと思えます。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」という言葉は良くない言葉だ。とは中村天風さんの本に書いてあったことで、私も、そうだよな〜と思ってたけれど一理もある。
上級者には当てはまらないけれども。
「必要なもんはそれぞれにあげてるんやで。生かすも殺すも自分次第や」
ということでしょうか。
なんて公平なのか。ありがたや。
それにしても関西弁ってカジュアルであったかくっていいですね。(使い方間違えてないかな?)
メッセンジャーの言語としてとても適してるような気がします。