ヨガを始めてから、
自分の身体を知っていくことと人生の気づきが並行していくことになった。
テニスをしていた学生の頃に、
今くらい身体への探究心があったなら、
もっと上手く出来ただろうにとか。
もっと体を面白がりながらやれたのになとか。
今思えばあの頃は、非効率に動いても
有り余る体力があったのだねぇ。。
どんな事をするにしても、
最初はやり方が分かるまで、とにかくやる。
そしてそこからはどうしたらよりよく出来るか「探る」。
どちらも、《やる》ということではあるけれど、
探るは内の作業。
そして、創造というのは探るという行為。
例えば、カップでコーヒー☕️を飲むとして
右手で持ち手を持って口に運ぶというだけなのだけれど、
人それぞれ違うと思う。
私の場合だけれど、
カップを持つだけなのに肩も上げて、胸も張る。
横隔膜より上の筋肉を無駄に硬くして使うことが長年癖になっていて、
体型にも現われている。
コーヒーを飲む動作くらいなら 表面上、美しいっぽい動きをする事は
簡単なのかもしれない。
だけれども、見る人が見れば、
身体のどこの部分に力が入っているか、息を止めているか、
付け焼き刃かどうか分かってしまう。
美しい動きにはある程度の共通点があるなと思う。
上半身に無駄な力みがない事。
お腹の力と足の力があってこそ、それは可能。
カップを持つ力はどこから?と考えるに、
手の握力、とか、腕の筋肉、とかなのだろうけれど、
それらの大元は腹(肚)だと思えていた。
なのにその腹説さえも、ん???と感じる時が出てきて。
あ、腹の大元はかかと🦶やん…。
かかとに重心がかかっている時は、
腕が重みを感じずに上がる。
それどころか、かかと重心でないと腕を上げるのが疲れる。
かかと重心の身体の使い方は、
みぞおちと膻中(だんちゅう)を硬くしていたら出来ない。
という事に最近気がついた。
そして、かかとの更に下にあるものが
本当の大元なのではないのか、という予感が、
もうすこし実感を伴うまでになれたらいいなと練習している。
そこを訓練?する独特のボディーワークを
エネルギーの学校で教わっている。
私はその感覚をヨガに持っていく事が実験。
ヨガをとにかくやる、
というところから
「探る」というふうにやっていくと、
何度もした事がある同じアーサナに隠されたものを
見つける事ができる。
道(どう)というのは
ひたすらに探る行為のことなのかもしれなくて、
道になるかどうかはやり方次第なのだなと思う。